2010年9月はじめのある夜、治安のよいダカールにしては珍しく、パトカーをみかけた。「あれは物乞いに立ち退きを命じているんだよ」と一緒にいた同僚が説明する。立ち退きに応じない場合は警察署に連行されるという。セネガル政府は数日前に、物乞いを厳しく取り締まると発表したばかりだった。
物乞いが犯罪扱いされる…貧しい人はどうなるの?禁止したところで何も根本的な問題の解決にはならないのでは?違和感を覚えた私は、同僚や友人たちに意見を聞いてみた。
物乞いを選ぶ人、選らばざるを得ない人
意外にも、物乞いの禁止は当然という意見が多い。「あの人たちは必ずしも貧しいわけではなくて、普通に働くよりも楽に稼げるから物乞いをしているのよ。そのお金で家を建てる人もいるんだから」と友人の一人が答える。別の同僚は「セネガル国内だけでなく隣国のマリやギニアビサウから物乞いをするためにわざわざダカールまでやってくる人もいる」という。
自ら選んで物乞いをする人がいる一方、物乞いが生活の糧を得る唯一の手段という人たちは、禁止令に反対している。ある障がい者団体は「政府は物乞いを禁止する前に、職業訓練などの支援をするべきだ。そうした対策があれば、これほどの障がい者が物乞いをする必要はないのに」と怒りをあらわにする[1]。
搾取の犠牲になる子供たち
実は、物乞いを禁止する法律は以前から存在する[2]。今回それを実際に厳しく適用し始めたということなのだが、その理由を政府は「子供の物乞いをなくし、その背景にある大人による子供の搾取、人身取引をなくすため」だと説明する。首都ダカールだけで約8千人の子供たちが物乞いをしているといわれ、その9割がタリベ(コーラン学校の生徒)だという。修行僧の托鉢のように、タリベたちは人々に施しを求めてまわるが、一日中物乞いをさせられ「稼ぎ」が少ないと体罰を与えられるという、搾取の対象となってきた[3]。
与える側の事情
一方で、一部の人たちは「良い行い」のために物乞いの存在を必要としている。セネガル人口の9割以上を占めるイスラム教徒の間では「喜捨」といって、恵まれない人々に施しを与えることが推奨されている。この国では、伝統的な習慣[4]も加わって施しを与えるのごく日常的になっている。
ある男性は新聞のインタビューで、「おとといは施しをするのにずいぶん苦労したよ。長いこと物乞いを探し回って、やっと良い行いができた」と答え、別の女性は「物乞いたちに場所を指定したほうがいいと思う。そうしたら施しをする必要があるときにすぐに彼らを見つけられるでしょう。街中をうろうろされるのは、きれいじゃないけどね」と答えている。
根の深い問題
波紋を呼んだ物乞い禁止令は、結局ワッド大統領によって撤回された[5]。あれから2ヶ月、一時期見かけなかった物乞いも小さなタリベも元通り街に戻ってきた。
自ら物乞いを選ぶ人、選ばざるを得ない人。物乞いを通して搾取する人、される人。与えるために物乞いを必要とする人。街で彼らに出会うたび、貧しさの一言では片付けられない、問題の根の深さを見る思いがする。
[1] Sénégal: Les mendiants défient l'interdiction de manche
http://www.afriquejet.com/afrique-de-l'ouest/senegal/senegal:-les-mendiants-defient-l'interdiction-de-manche-2010082755153.html
[2] 法律では、モスクなどの「宗教施設」を除く、公道での物乞いが禁止されている。2005年には「利益を搾取する目的で他者に物乞いをさせる」ことを禁ずる法律が制定された(違反の場合、懲役2~5年+罰金)。
[3] 今回の物乞い禁止令は人権保護団体からは評価されている。UNICEF、Human Rigtht Watchなどの報告によると、これらの子供たちはマラブー(コーラン学校の指導者)に強制させられて物乞いをしており、半数が10歳未満、9割以上がダカール外のほかの地域や隣国からつれてこられた子供たちだという。今回の取締りによってマラブーが逮捕され、子供たちが保護されたというニュースもある。
[4] たとえば、願い・おまじないをかなえるためにモノやお金を与えるなど。この辺の文化的事情は、セネガルの女流作家Aminata Sow Fallの小説『La grève des bàttus』(物乞いたちのストライキ)に詳しい。
[5]ワッド大統領は「喜捨(施し)は宗教によって推奨されている」と発言している。マラブーたちも彼の重要な支持層であり、物乞いや与える側よりも搾取している側を擁護しているように見える。