ワッドは国外でもワッド流を貫いてきた。外交の繊細さなど意に介する風もない。時には勇敢と思われる行動をとってきたが、大体の場合は思慮の足りない無謀に終わっている。
2002年、クーデタ後のコートジボアールでは反乱軍のソロを支持し、2010年の大統領選前にはワタラ支持をあからさまに表明してバグボ(当時大統領)の怒りを買った。
「いつも民主主義のお手本を見せたがり、自分ひとりで動きたがり、それが問題をさらにややこしくする」というのがワッドの欠点だと西アフリカの外交官は分析する。ギニア、マダガスカル、ニジェールへの介入がその例だ。
2008年12月のギニアのクーデタで、ワッドはいち早くダディス・カマラ大尉の軍事政権を支持する(ダディスはワッドを父と呼び慕っていた)。しかし程なくして2009年9月にその軍事政権による虐殺事件が起こり150人以上の一般市民が犠牲になった。結果としてワッドは面子を失い、「ライバル」であるコンパオレ・ブルキナ大統領が2010年ギニア大統領選の調停役の座をさらった。
それでも、旧宗主国フランスの機嫌をあまり損ねることなく、アメリカ、インド、中国、イラン、湾岸諸国などとの新しい外交関係を構築してくることができたのは、この「国家主権外交」の成功の証といえる。しかし、ノーベル平和賞をとりたいなどという行き過ぎた野望(ウィキリークスに流れたアメリカ外交官のコメント)が空回りすることは少なくない。ワッドは2011年、アフリカの国家元首として初めてリビアの反カダフィ政権への支持を表明し、ベンガジを訪問した。欧米に協調して反カダフィの姿勢を示すことによって、欧米から25%の得票で大統領に当選できるという憲法改正案への支持を得たかったのでは、とセネガル政界の関係者は邪推する。もしそれが本当ならば、とんだ計算違いだが…。
*この記事は以下の『Jeune Afrique』誌の記事を日本語で要約したものです。
PERDRIX Philippe. Président sans frontières. Jeune Afrique du 15 au 21 janvier 2012. p28-29.
0 件のコメント:
コメントを投稿